見沼田んぼの散歩道 > 見沼田んぼの基礎知識 > 見沼代用水と見沼田んぼの歴史
見沼田んぼと見沼代用水の歴史について、簡単にまとめてみました。
見沼田んぼを取り囲んでいる関東ローム層の洪積台地には縄文時代の遺跡があちこちに見られ、周辺には貝塚もたくさんあります。
このことは、その昔、見沼田んぼが東京湾が深く入り込んだ形の「海」であったことを示しています。
その後、海が徐々に後退し、河川によって運ばれた土砂が堆積して河口が塞がれると、見沼田んぼ周辺は巨大な湖となりました。
以後、周辺に台地に住む人々に魚介の恵みをあたえ、四季折々の風景を見せる神秘の湖となります。
中世後半の頃には、かつての広大な湖もかなり陸化が進み、見沼の大部分は湿地帯となっていました。
そんな見沼は、江戸時代初期、関東郡代伊奈半十郎忠治によって大きく変貌を遂げます。
伊奈忠治は、見沼の両岸の台地が最も狭まった地点木曽呂村(川口市)と附島村(旧浦和市大間木)の間に堤を築き、見沼から流れ出る芝川の流れを堰き止めて見沼を広大な溜池としました。
これが、見沼溜井です。
ちなみにこのとき築いた堤は、その長さが八丁(約870m)あったため「八丁堤」と呼ばれました。
見沼溜井は、総面積1200ヘクタールにおよび、近郊・下流域の村々を潤しますが、一方では上流域の排水不良や増水によって水害をもたらしたりもしました。
徳川吉宗が八代将軍になった享保元年(1716年)頃は幕府の財政が非常に悪く、その立て直しのために質素倹約を徹底させ幕府の収入増加の為に新田開発を呼びかけました。
これを「享保の改革」と呼びます。
見沼溜井は、この「享保の改革」の一環として干拓され大水田地帯、つまり「見沼田んぼ」となります。
工事を担当したのは、当時幕府に使えた「井沢弥惣兵衛為永」です。
井沢弥惣兵衛は、八丁堤を切り旧芝川を排水路として見沼溜井の水を落として水田を開くと共に、溜井の代用となる水源として利根川から水を引く用水路を開削しました。
このことから、見沼の代わりに掘られた用水路ということで見沼代用水と言います。
見沼代用水は見沼田んぼの東西の縁に沿って分流され、これが現在の「西縁」・「東縁」となっています。
見沼代用水の完成で、これまで溜井であった土地が新田として開発され広大な見沼田んぼとなりました。